「県道日立停車場線」
太平洋戦争での空襲・艦砲射撃・焼夷弾攻撃により焼け野原となった日立市街地
1946年 国の指定を受けて戦災都市復興計画が開始され
新しい街づくりや工場の再建のほか、文化・教育面にも力がそそがれる。
その事業のひとつに新しい日立駅の建設や日立駅と国道6号をむすぶ「県道日立停車場線」の計画がありました
1951年12月完成 名称を広く市民から募集 応募総数1163の内180を占めた最多数の「平和通り」に決定
「日立の繁栄は平和通りから〜日本の平和は日立市民の平和を愛する心から」という思いがこめられている、とされています。
日立駅から国道6号までの約900メートルの両側に合計115本の桜並木。
1951年の完成に伴い 茨城県知事と日立市長による記念植樹が行われ、
その後、地元有志により植樹が続けられ 1970年頃には桜の名所として有名になりました。