岡倉天心

本名岡倉覚三(かくぞう)
江戸幕末の文久2年(1862)、元越前福井藩士で生糸の輸出を生業とする石川屋岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれた。

当時は 文明開化という時代で、海外に開かれた開港地横浜で、ジェイムズ・バラの塾等で英語を学ぶ。

明治8年(1875)、東京開成学校に入学。
明治10年(1877)には同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移し、
外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853−1908)に政治学、理財学(経済学)を学ぶ。
 天心は、日本美術に傾倒したフェノロサの通訳として、行動を共にするようになり古美術への関心を深めていった。

明治13年(1880)東京大学を卒業した天心は、文部省へ就職し草創期の美術行政に携わることになる。
明治16年(1883)頃から文部少輔九鬼隆一(くきりゅういち)に従い本格的に全国の古社寺調査を行った天心は、日本美術の優秀性を認識すると共に、伝統的日本美術を守っていこうとする眼が開かれていった。
明治19年(1886)フェノロサとともに美術取調委員として欧米各国の美術教育情勢を視察するために出張。
帰国後の天心は、図画取調掛委員として東京美術学校(現在の東京芸術大学)の開校準備に奔走します。開校後の同23年(1890)、わずか28歳の若さで同校二代目の校長になった天心は、近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てていきました。

急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになります。特に学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退いた天心は、その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。

その院舎はアメリカ人ビゲローなどから資金援助を得て、東京上野谷中初音(やなかはつね)町に建設され、美術の研究、制作、展覧会などを行う研究機関として活動を始めた。 

明治34年(1901)、インドに渡った天心はヒンズー教の僧スワミ・ヴィヴェカーナンダ(1863−1902)を訪ね、東洋宗教会議について話し合いますが実現には至らず、彼の紹介で出会った詩人ラビンドラナート・タゴール(1861−1941)やその一族と親交を深めました。
また、インド各地の仏教遺跡などを巡り、東洋文化の源流を自ら確かめた天心は、滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げる。
明治37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、また、ボストン社交界のクイーンと呼ばれた、大富豪イザベラ・ガードナー夫人と親交を深めることになる。

明治36年(1903)茨城県北茨城出身の日本画家飛田周山の案内により五浦を訪れた天心は、太平洋に臨む人里離れた景勝地を気に入り、土地と家屋を買い求めた。
明治38年六角堂と邸宅を新築、拡張するなど、以後五浦を本拠地とする。
 一方、日本美術院は、天心や横山大観など主要作家の海外旅行による長期不在が重なるなどにより経営難に陥り、その活動も衰退したため、
明治39年(1906)、天心は日本美術院の再建を図る。それまでの美術院を改組し、その第一部(絵画)を五浦に移転しました。
天心はここを「東洋のバルビゾン」と称して新しい日本画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せた。
 生活上の苦境に耐えながらも大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、明治40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表した。

晩年の天心は、ボストン美術館において中国、インド、日本での美術品収集を精力的に行うほか、日本や東洋の美術を欧米に紹介する著作や講演の仕事をこなした。
明治43年(1910)には同美術館の中国・日本美術部長に就任。
大正元年(1912)夏、ボストンに向かった天心は途中インドで、詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚 にあたる女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871−1935)と出会う。以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。
明治2年(1913)体調がすぐれずアメリカから帰国した天心は、一旦五浦に戻った後、静養のため新潟県赤倉に移りましたが、病状が悪化し、9月2日、51歳の生涯を閉じました。
東京染井(そめい)墓地に葬られるとともに、五浦にも分骨されました。

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