作詞 山上路夫・作曲 木下忠司
人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る
歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を ふみしめて♪
人生勇気が 必要だ くじけりゃ誰かが 先に行く
あとから来たのに 追い越され 泣くのがいやなら さあ歩け♪
人生涙と 笑顔あり そんなに悪くは ないもんだ
なんにもしないで 生きるより 何かを求めて 生きようよ♪
しっかり水戸黄門で始まりました♪(笑)
水戸市より北へ20km 車で30分ぐらい走ったところに 常陸太田市があります♪
ここに紹介するのは 西山荘
徳川光圀公が元禄4年から10年間過ごした隠居所です。
読み方は 常陸太田市の西山(にしやま)にある西山荘(せいざんそう)です。
元禄3年10月、水戸藩の第2代藩主徳川光圀公は家督を第3代綱條に譲った後、権中納言(唐名 黄門)に任ぜられる。
そして 元禄4年初めに 隠居を許され 5月9日、江戸城を離れ、「大日本史編纂事業」に生涯を捧げるべく、当時 完成されたばかりの 質素な茅葺屋根の木造平屋建造りの西山荘に移り棲まれた。
元禄13年 12月6日、西山荘の寝室で73歳でお亡くなりになるまでの10年間、編纂の傍ら多くの領民と親交を重ね、多くの人々から慕われたそうです。73歳でした。
西山荘は、光圀公の死後も遺徳を偲ぶ歴代藩主により守られてきたが、文化14年(1817)の野火により焼失、
その2年後の文政2年第8代藩主齊脩公により、規模を縮小して再建され今日に至っている。
なお 光圀公は この敷地内に薬草を植え、また397種類の薬草を載せた「救民妙薬集」を発行し、民間に配布したそうです。
1、両親の墓所瑞竜山と 母久子の菩提寺(久昌寺)に近かい場所であること。
2、秋田への国替えとなった佐竹氏の残留遺臣や旧領民たちに対する撫育の意味もあったこと。
3、18歳の時に読んだ「史記」の伯夷伝で 自ら反省し立志し それ以来慕い続けた伯夷叔斎の最後の地、首陽山の別名西山と同じ地名であったこと。
壁紙は のりりん作